イカ焼きと海


 そこにイカ焼き屋があった。
 ただそれだけであり、俺がそのイカ焼き屋でイカ焼きを買ったのに深い意味はなかったのだ。ただ智宏が、イカ焼きが食いたいな、などと言い出したからだ。
 そんなとき、ちょうど立ち並ぶ屋台の間にイカ焼き屋を見つけた俺は、早速イカ焼きを買って食ってみることにしたわけだ。
 げそが200円、半身が400円、身体全体が600円、豪華な姿焼きは900円。4種類のイカ焼きを前に、しばし逡巡する。
「げそはやめとけよな」
「うるさいな。お前は黙ってろよ」
 横から口を突っ込む智宏を黙らせると、俺は400円の半身を選んだ。毎度ぅ!と店員がはけでタレを塗り、じゅうと焼いてくれる。
 そのとき、かすかに誰かの----熱い、という悲鳴を聞いた気がした。
 が、騒ぎになることもない。空耳だったのだろうか。紙袋に包まれたイカ焼きを受け取ると、ふたたび歩き出す。
 袋からイカの三角形の頭を出して、かじりつこうとしたそのときだった。
「やめて下さい、お兄さん」
 今度は、すぐ間近で声がした。思わずあたりを見回すが、誰もいない。
「どうかしたのか?」
「今、子供の声が…………」
 どうやら智宏は気づかなかったらしい。俺の聞き違いかと思い、再び今度はひといきにイカ焼きに歯をたてたとき、
「痛いです。お兄さん」
「……ってうわぁっ!!!」
 まただ。しかも何やら顔面のものすごく近くで聞こえた気がする。驚いて齧りかけたイカ焼きを口から出してまじまじと見つめる。
「どうしたんだよ」
「今……こいつから声が………」
「何言ってんだよ。疲れてるんじゃないのか?」
 智宏は信じようとしなかったが、今のはたしかに俺の口の中で聞こえたのだ。とはいえイカ焼きをじっと見つめていてもらちがあかない。おそるおそる口に入れようとしたその瞬間だった。
「優しくして下さい、お兄さん」
「どわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
 俺は危うくイカ焼きを取り落としそうになり、慌てて空中で串を受け止めた。今度は智宏にもはっきりと聞こえたらしく、目を丸くしていた。
「お、お前、なんなんだ!?」
「イカ焼きです」
 そんなことは言われなくてもわかる。待てよ、イカ焼き型地球外生命体ということもあるか。
「そーじゃなくて。なんでイカ焼きが喋るんだよ」
「イカ焼きが喋ってはおかしいですか?」
「イカ焼きとしてはかなり珍しい部類に入ると思うぞ」
 すかさず智宏が突っ込みを入れる。さすが大阪出身だけのことはある。俺は妙なところで感心した。
「そんな……お兄さんはイカ焼きには喋る権利がないとおっしゃるのですか?」
 悲しそうに言われても困る。
「権利云々という以前に、口もないのによく喋れるもんだな」
「口なんて……『目は口ほどに物を言う』と言うじゃあありませんか」
「いや……目もないと思うが」
 智宏の意見に、イカ焼きはまたしても悲しそうな顔をし、
「…………あまりいじめないでください、お兄さん」
「イカ焼きをいじめるつもりなんかないのだが」
 さきほどから、人混みの真ん中でイカ焼き片手にぶつぶつ言っている俺達を、奇異の目で見る視線が気になってきている。はたから見ていれば、単なる変態だ。
「まぁ、立ち話もなんだし、落ち着いて話を聞こうか」
「聞いてもらえますか、お兄さん」
 目を輝かせる(?)イカ焼きを紙袋に覆い、俺は智宏を促して、人気のない小さなわき道へとそそくさと逃げ込んだ。


「僕はこう見えても昔はイカだったんです」
 それは見ればわかる。
「それが今やこんな姿に……波折りにされて串で串刺しです……ああ、なんて情け無い…」
「そうかー、大変だったんだなー」
 他人事のようにとりあえず相づちを打つ。
 なにしろイカ焼きの人生相談に乗るなぞ、はじめての経験である。しかもこいつの頭には、俺の歯形までくっきりと残っている。
「こんな姿にされてしまって…故郷の両親や兄弟たちに申し訳がたちません」
「……って、故郷の両親、いるのか?」
「わかりません。彼らと引き離されてもうずいぶんになります。あるいはもう魚市場に出されて競り落とされて………せめて高級料亭でイカそうめんにでもなっていてくれればよいのですが」
 どちらにしろ食われるのなら同じだろうにと思うが、イカにはイカなりの人生観というものがあるのだろう。イカの幸せを人間がはかることなどできないのかもしれない。
「それで、故郷ってどこだ?」
「海です。お兄さん」
 イカが山生まれであってたまるものか。
「どこの海だ?」
「海は海です。僕たちには僕たちの名付けた海の領域があるのですが、お兄さんたちの知るところではないでしょうから」
「日本海とかオホーツク海とかではないわけだな」
 どうも智宏は妙にイカと話があうらしい。なにやらお互いに理解し合っているようである。
「お兄さん、お願いがあります」
 急にあらたまった口調になるイカ焼き。
「僕を海へ連れていって下さい」
「ええええっ!?」
 そんなことを急に言われても困ってしまう。第一、このイカ焼きをぽちゃんと海へ投げ込んで、それでよいのだろうか。
「そんなこと言ってもお前………」
「お願いです。海まで連れていってくだされば、あとは自分で故郷の海へ辿り着きます」
 イカ焼きは真剣だ。
「本来ここが海のそばであれば、僕に足が残されてさえいれば、自分で海へ還ることもできるのですが……」
 もしも足があったとしても、こんがり焼かれて串刺しではどうにもならないと思うのだが。
「面白そうじゃないか。連れて行ってやれよ」
「そんなこと言ったって智宏……」
「400円でこんな面白そうなことが買えるんなら、安いもんじゃないか」
「お願いします、お兄さん」
 言われてみれば智宏の言うことにも一理ある気がしてきた。俺は智宏に影響されやすいのだ。
 幸いポケットにはもう少し小銭が残っている。
 海が見える駅までは220円だったな、と確かめ、時計を見る。終電までに戻ることもできるだろう。


 日もとっぷり暮れ、車内には空席が目立つ程度の混み具合だとはいえ、イカ焼きを手に持っているとさすがに目立つ。
 かといって、バックパックに突っ込んだりしては中がしょうゆだれでべたべたになってしまう。第一イカ焼きから不満の声があがるに決まっている。
「そもそも、だ。お前はなんでまた海に還ろうなんて思ったんだ。仲間のイカ焼きたちは立派にイカ焼きとして生き抜いてるじゃあないか」
「それは偏見ですよ、お兄さん」
 ましてやイカ焼きとなにやらぶつぶつ話しているなど、陽気にあてられた奴か、さもなくばアル中にしか見えないだろう。車両の最も端の席に陣取り、できるだけ声を殺して話しているが、それでもそばを通るサラリーマンたちは気味悪げに迂回していく。
「イカ焼きにだっていろいろあるんです。イカ焼きとして誇りを持っているイカもいるかもしれませんが、なかには悔し涙を飲み込んで、仕方なくイカ焼きになった者もいるんですよ」
 力説するイカ焼き。
「毎日毎日鉄板の上で焼かれて、イヤになっても海に逃げ込む自由すらないんですよ、たい焼きと違って…たい焼きなんて、その身の上を歌にしてミリオンヒットまで飛ばしたというのに。僕は…」
「でもたい焼きは最後はつり人に食われるんだぞ」
 イカ焼きは力一杯首をふった(ように見えた)。
「それでも自分の意志を全うできれば悔いはないはずですっ!」
「しかし、だからって買ってやった人間に海に連れて行けってのは、かなり珍しいと思うが」
「そうですか……お兄さんは今までそんなイカ焼きに出会ったことはないでしょうね」
 普通の人間はそんな経験はない。
「第一お前、今の人生が気に入らないからって逃げてなんになる?故郷に帰ってやりなおす、か?それでお前はどうするつもりなんだ、これから?」
「わかりません……こんなふうになってしまっては、もうイカとして第二の人生を歩むことすらままならないでしょうから……せいぜいサメに追いかけられて難破船に逃げ込むのが関の山でしょうね」
「半身にさばかれてしょうゆ焼きにされたんじゃあなぁ」
 その点については大いに納得できた。
「でも、とにかく僕は原点に帰ってみたいんです。それが必ずしもプラスにつながらなくとも」
「たぶんつながらないと思うぞ」
「そう言ってやるなよ」
 智宏が耳元でささやきかけた。
「こいつにはそんなことを言えるが―――それなら俺達はどうなる?」
「………………」
 一瞬答えにつまった。
「お兄さんにも、わかるはずですよ」
 目はないが、イカ焼きが俺の顔をじっと見つめているのがわかった。
「お兄さん達にも、帰りたい海があるんですね」
「そうさ、人間にもそんな奴はごまんといる。たとえ、それが記憶にない海であろうと」
 智宏は急に詩人のような喋り方をすることがある。たいていは俺には理解できなかったが、なぜかこの言葉は俺に理由のわからない寂寥を与えることに成功していた。
「海が見えてきたぜ」
 何を言うべきか思いつかず、俺は窓の外をイカ焼きに見せてやった。
「ああ、海ですね。懐かしいです」
「お前の生まれた海からは遠く離れていても、だよな」
 このイカ焼きも、そうやって思いがけないイカ生に折り合いをつけているのだろう―――ちょうど俺達と同じように。
 あるいは、それがなんの意味のないことであっても。


 駅から数分歩いたところに、砂浜があった。
 月明かりのもと、寄せては返す波の音だけが響いていた。
「ご迷惑をかけてすみませんでした、お兄さん」
「気にすることはないぜ、どうせ暇なヤツだ」
 智宏に言われたくはなかったが、とりあえず黙っておく。
「それより――――『還って』あとはどうするんだ?」
「それはまたあとで考えますよ」
 イカ焼きはしばし波の音にみみをすませた。ふと、こいつの生まれた海というのは、こことどれほど似た場所なのだろうか、という考えが頭をよぎった。
 しかし、そんなことは問題ではないのかもしれない。俺はイカ焼きになったことはないのでよくわからないし、智宏とちがって気の利いた言葉で説明することもできない。が、なぜかこの変わり者のイカ焼きの気持ちがなんとなくわかった気がした。
「最後に、この串を外してくれませんか。痛くて仕方ないです」
 俺はイカ焼きから串を引っこ抜いてやった。芯を失い、急にぐったりとした印象になる。
「ああ、ありがとう、お兄さん」
 安堵したらしいイカ焼きを紙袋から取り出すと、海に放り投げるべく構える。
「しかしお前も変わったイカ焼きだな」
「お兄さん達も、かなり変わってると思いますよ」
 それを聞いて、俺の中で智宏が笑い出した。たしかに、そうかもしれない。砂浜に目を落とすと、そこにはただ俺の影ひとつが長く伸びている。
 俺は、大きく振りかぶってイカ焼きを海へと投げ込んでやった。イカ焼きは、海上をおおきな円弧を描いて、最後にぽちゃん、という力無い音を残して波間に消えていった。
 さて帰るか。どこへ?茶化すように、今度は心の中だけで智宏が言う。俺のなかに生まれた、人格だけの智宏という存在。もういつから何故俺の中にいるのかすら思い出せない。
 しかしそれはどうでもよいことなのだろう。たぶん。
 イカ焼きを食いそこねたことだけが、俺の心残りだった。

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