十五分ほど電車に揺られて、僕は下宿のアパートに帰り着いた。
制服を脱ぎ、テレビをつけたとき、大家さんがやって来た。
「こんばんわ」
何か違和感を覚えた。
僕はおそるおそる大家さんにたずねた。
「あのう、ちょっと聞きたいんですけど」
「何でしょうか」
大家さんもこの違和感には気づいていたのだろう。しかし、お互いにそれを口にするのはためらわれた。
「僕…半月ほど前にここを引っ越した気がするんですけど」
「ええ、はあ……そうでしょうね…はい」
大家さんは、そのことを告げに来たのだろうか。そうだとしたら悪いことをしてしまった。
僕は大家さんに謝ると、着の身着のままアパートを出た。
行くあてもないので、僕は実家に帰ることにした。
ここから実家までは、特急に乗れば小一時間ほどで着く。しかし時間的にはもう鈍行しかなかったので、僕はたっぷり三時間以上かけて故郷に向かった。
列車の中で考える。何故僕は下宿を出ることになったのだろう。
やましいことはないはずだ。金もある。あんな条件のいいところは、そうなかったはずなのに。
どうも記憶がはっきりしないようだ。疲れているのだろうか。
実家に着くと、母が迎えてくれた。
風呂に入り、久々に母の手料理でくつろぐ。
二年ぶりだというのに、部屋の中の雰囲気も変わっていない。
ふいに、線香の匂いがした。
「母さん、線香は好きじゃなかったはずだよね」
聞こえているのかいないのか、母は振り返りもせずに皿を洗っている。
その瞬間、恐ろしいことを思い出した。
「母さん」
そこに母の姿はなかった。
なぜなら、二ヶ月前に亡くなっているのだから。
棚の遺影を前に、僕は周りを見回した。
随分長い間手入れのされていない家は、よく見ると、見る影もなく荒れてはてていた。
僕は部屋の真ん中のちゃぶ台に突っ伏して泣いた。
どうして忘れていたのだろう。二ヶ月前、病気か事故か、あるいは、自殺。誰かに殺されたのかもしれないが、頭がぼうっとしていて思い出せない。
いや、どうして思い出してしまったのだろう。何も思い出さなければ、なにも失うことはなかったのに。母も、家も、絵里も、定期券も。
泣くのに飽きた僕は、町へと出かけることにした。
夜の町は寒かった。
いったい今は何月なのだろう。日付は10日。水曜日。しかし夏か冬かすらわからないのだ。
肌寒い気がするが、薄着だからかもしれないし、クーラーが効いているのかもしれない。
小さな交差点で足を止める。
一角に、いくつかの花束が手向けられている。事故でもあったのだろうか。
とたんに不安になった。何かを思い出しそうになる。
思い出さなければならないのかもしれない。しかし思い出してはいけない気もする。
「やあ」
肩をたたかれ、僕は我に返った。
中学時代の同級生が、にこにこしながら立っていた。名前はよく思い出せない。
「やあ、久しぶり」
おざなりの挨拶を交わすと、僕は思わず花を指さし、彼にたずねていた。
「ここで……何かあったのかい?」
彼は一瞬眉をひそめ、つぶやくように言った。
「ああ……俺もよくは知らないんだが、なんでも半年ほど前、高校生が信号無視のトラックにはねられたらしい」
聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ、僕は。
「ひどいものだったらしいぜ……手足なんかほとんどとれて、メチャメチャになってたそうだ」
いつしか、僕は彼を見上げているような気がしてきた。というよりも、僕の顔のすぐそばに地面が迫っている。五十センチほど離れたところに、自分の肩口の肉が見えている。鉄サビのような匂いが鼻孔をつく。
状況がよくのみこめない。
「ところで、この前ちょっと聞いたんだけど」
彼は再び明るい表情になったようだった。逆行で顔がよく見えない。
「いや、その事故と同じ頃に、お前が交通事故で死んだとか聞いたんだが……」
僕はすべてを思い出した。
僕は何も失ってなどいなかったのだ。
もう、何も思い出すことはない。僕のことも。
今日も、期限の切れた僕に、線香と花が手向けられる。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||