期限切れ


 学校の帰り、いつものように定期を自動改札機に通すと、扉を閉められた。
 一旦改札を出、再び機械にカードを押し込む。電子音。
「おかしいな」
「どうしたの」
 首をひねる僕に、絵里がけげんな顔でたずねた。
 あらためて定期券を眺める。名前や年齢がかすれて読みづらくなっているが、その有効期限はなんとか読みとれた。
 ある事実に気づき、僕は絵里に尋ねた。
「今日何日だっけ」
「10日よ。水曜日だから」
「おかしいな。この定期昨日までなんだよ」
「そう」
 確か僕は今日もいつものように学校に来たと思うのだが。そのときはどうしたのだったか。
 どうも記憶がはっきりしない。
 仕方がないので僕は切符を買って、帰ることにした。券売機にコインを投げ込んだとき、ふと思い出して僕は顔を上げた。
「絵里、確か君とは先週別れたんじゃなかったかな」
 絵里はにっこり笑って答えた。
「そうだったかもしれないわね」
 美しい、というよりむしろ可愛らしい笑顔も崩さぬままに、絵里は一歩退いた。
 どうして彼女と別れる気になったのか、もしかすると絵里の方から一方的に別れを告げられたのかもしれない。
 どうも頭がぼんやりしていて、うまく思い出すことができない。
「それじゃあさよなら」
 絵里は行ってしまった。
 少し悲しくなったが、過ぎたことをくよくよしても仕方がない。僕は券売機のボタンを押し、アパートの近くの駅までの切符を買った。

 十五分ほど電車に揺られて、僕は下宿のアパートに帰り着いた。
 制服を脱ぎ、テレビをつけたとき、大家さんがやって来た。
「こんばんわ」
 何か違和感を覚えた。
 僕はおそるおそる大家さんにたずねた。
「あのう、ちょっと聞きたいんですけど」
「何でしょうか」
 大家さんもこの違和感には気づいていたのだろう。しかし、お互いにそれを口にするのはためらわれた。
「僕…半月ほど前にここを引っ越した気がするんですけど」
「ええ、はあ……そうでしょうね…はい」
 大家さんは、そのことを告げに来たのだろうか。そうだとしたら悪いことをしてしまった。
 僕は大家さんに謝ると、着の身着のままアパートを出た。
 行くあてもないので、僕は実家に帰ることにした。
 ここから実家までは、特急に乗れば小一時間ほどで着く。しかし時間的にはもう鈍行しかなかったので、僕はたっぷり三時間以上かけて故郷に向かった。
 列車の中で考える。何故僕は下宿を出ることになったのだろう。
 やましいことはないはずだ。金もある。あんな条件のいいところは、そうなかったはずなのに。
 どうも記憶がはっきりしないようだ。疲れているのだろうか。

 実家に着くと、母が迎えてくれた。
 風呂に入り、久々に母の手料理でくつろぐ。
 二年ぶりだというのに、部屋の中の雰囲気も変わっていない。
 ふいに、線香の匂いがした。
「母さん、線香は好きじゃなかったはずだよね」
 聞こえているのかいないのか、母は振り返りもせずに皿を洗っている。
 その瞬間、恐ろしいことを思い出した。
「母さん」
 そこに母の姿はなかった。
 なぜなら、二ヶ月前に亡くなっているのだから。
 棚の遺影を前に、僕は周りを見回した。
 随分長い間手入れのされていない家は、よく見ると、見る影もなく荒れてはてていた。
 僕は部屋の真ん中のちゃぶ台に突っ伏して泣いた。
 どうして忘れていたのだろう。二ヶ月前、病気か事故か、あるいは、自殺。誰かに殺されたのかもしれないが、頭がぼうっとしていて思い出せない。
 いや、どうして思い出してしまったのだろう。何も思い出さなければ、なにも失うことはなかったのに。母も、家も、絵里も、定期券も。

 泣くのに飽きた僕は、町へと出かけることにした。
 夜の町は寒かった。
 いったい今は何月なのだろう。日付は10日。水曜日。しかし夏か冬かすらわからないのだ。
 肌寒い気がするが、薄着だからかもしれないし、クーラーが効いているのかもしれない。
 小さな交差点で足を止める。
 一角に、いくつかの花束が手向けられている。事故でもあったのだろうか。
 とたんに不安になった。何かを思い出しそうになる。
 思い出さなければならないのかもしれない。しかし思い出してはいけない気もする。
「やあ」
 肩をたたかれ、僕は我に返った。
 中学時代の同級生が、にこにこしながら立っていた。名前はよく思い出せない。
「やあ、久しぶり」
 おざなりの挨拶を交わすと、僕は思わず花を指さし、彼にたずねていた。
「ここで……何かあったのかい?」
 彼は一瞬眉をひそめ、つぶやくように言った。
「ああ……俺もよくは知らないんだが、なんでも半年ほど前、高校生が信号無視のトラックにはねられたらしい」
 聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ、僕は。
「ひどいものだったらしいぜ……手足なんかほとんどとれて、メチャメチャになってたそうだ」
 いつしか、僕は彼を見上げているような気がしてきた。というよりも、僕の顔のすぐそばに地面が迫っている。五十センチほど離れたところに、自分の肩口の肉が見えている。鉄サビのような匂いが鼻孔をつく。
 状況がよくのみこめない。
「ところで、この前ちょっと聞いたんだけど」
 彼は再び明るい表情になったようだった。逆行で顔がよく見えない。
「いや、その事故と同じ頃に、お前が交通事故で死んだとか聞いたんだが……」
 僕はすべてを思い出した。
 僕は何も失ってなどいなかったのだ。
 もう、何も思い出すことはない。僕のことも。
 今日も、期限の切れた僕に、線香と花が手向けられる。

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