環状線


 ふと顔を上げると、見慣れぬ町並みが目に飛び込んできた。
 うとうとしている間に、乗り過ごしてしまったらしい。ここはどのあたりなのだろうか。
 大学に遅くまで居残っていたため、すっかり陽は落ちている。
 環状線なので、このままでもいつかは家に帰り着けるのだが――――――。
 車内アナウンスが、聞き覚えのある駅名を告げる。どうやら降りるべき駅からひとつふたつ過ぎたところらしい。
 それならば、一旦降りて、内回りの電車に乗り換えたほうが早そうだ。
 まばらになった人をプラットホームに吐き出していく扉から、僕は慌ててホームに出た。そのとき。
 どんっ!
 入り口のところで肩が勢い良く誰かにぶつかって、僕は思わず転びそうになった。
 見ると、僕にぶつかってきた男は電車の中に倒れてうずくまっていた。不平を言う間もなく、目の前でドアが閉まった。
 ガラス越しに、男が顔を上げるのが見えた。異様なまでに慌てた様子である。
 …………おや?
 目が合った瞬間、何か違和感を覚えた。
 どこかで見た顔なのである。知り合い、というより、誰かよく知っている奴のような―――
 確かめる暇はなく、電車は走り出した。
 そのとき、男がこちらを見た。
 目をいっぱいに見開くと、愕然とした表情でこちらを凝視している。
 降車しそこなったらしいが、その様子に僕は思わずあっけにとられた。が、それ以上考える必要もない。折り返す電車に乗るべく、僕は内回りのホームへ向かった。


 異変は、翌日から始まった。
 いつものように下宿を出、駅に向かう。いつものように電車に乗り込み、学校へ行く。
 ラッキーなことに、席にすわることができた。少しのあいだまどろむと、昨夜のことを思い出して、意識して目を覚まそうと顔を上げた。半分首をひねり、窓の外を確認する。
 車窓をながれてゆく風景をぼんやりと見つめていた僕は、それに気づいて自分の目を疑った。
 窓の外が、夕焼けに染まっているのだ。
 僕が乗った電車は、8時24分発である。それは間違いない。
 それなのに、窓の外には、なぜか夕陽が輝いているのだ――――――。
 仰天した僕は、周りを見回した。
 スポーツ新聞を読んでいるサラリーマン、メールに余念がない女子高生、文庫本を取り落としそうになりながら居眠りをしている女性…………普段見慣れた車内の光景。しかし、それは夕方のものであったのだ。
 腕時計に目をやる。
 午後5時58分。目をこすってよく見るが、時計の針はやはり6時少し前を指している。
 そんなはずは―――――――。
 電車に乗っているうちに時間が進んだ?そんな話があるはずがない。
 あるいは、僕がおかしくなったのかもしれなかった。夢遊病者のように、環状線にゆられて一日を過ごしていたのかもしれない。いずれにせよ、にわかには理解しがたい現象だった。
 呆然としていると、僕の下宿がある駅が目に入った。習慣的にホームに降りると、混乱したままの頭で僕は家路に着いた。


 その日以来、僕は大学に行けなくなった。
 朝、電車に乗り込んでも、いつのまにか日が暮れて、もとの駅に帰ってきているのだった。
 だから、なるべく居眠りなどしないようにして、一駅一駅、確かめてみたりもした。それでも、一瞬でも気を抜くと、時間の感覚が狂ったようになり、夕焼けを目にするはめになるのだ。
 しかし、それだけでは終わらなかった。なんと、僕は大学に出ているらしいのである。
 それが起こって半月あまりが過ぎた。運の悪いことに、試験期間を含んでいたのだが、一応レポートを提出してある科目もあったので、適当な言い訳をして友人に成績表をとってきてもらうことにしたのである。
 それを受け取った僕は仰天した。受験したはずのない科目の単位がとれているのである。
 あわてて友人に連絡をとってみたが、やはり僕はこの2週間、普通に講義に出席していたと言うのだ。
 僕の記憶では、ただ電車に乗っていただけだというのに。
 頭がへんになったのかもしれないと思い、精神科を受診することも考えた。が、その病院に行こうとしても、やっぱりいつのまにか下宿に帰ってきてしまうのでできなかった。
 記憶喪失の一種なのかもしれない。気味の悪い状態ではあったが、これでも出席はできるというのなら不都合はないではないか。僕は無理矢理そう思いこもうとした。
 実際、電車に乗っているだけで講義に出たことになっているというのはこの上なく楽であった。そのうえ、アルバイト先にもきっちりと行っているらしく、口座には今月分の給料が振り込まれていた。
 だから、そのときには僕はこの現象を疎ましく思っていなかったのだ。


 しかし、意外な弊害は休暇にはいってからあらわれたのである。
 故郷にいる恋人の真理が、ひさしぶりにこちらへ来ると言ってきたときのことだった。
 意気揚々と家を出た僕だったが、結局まちあわせの場所にたどりつくことはできなかったのである。
 電車は、目的の駅に着くことなく、下宿近くの駅へと戻ってきてしまったのだ。がっくりとした。
 夜になってかかってきた真理からの電話では、やはり僕は予定通り真理と会っていたらしかった。急ぎの用があるのでもう明日には帰るのだと言う。
 平静を装っていた僕だったが、真理の語った意外な事実には驚きを隠せなかった。
「そうそう、雨大丈夫だった?ごめんね、傘貸してもらっちゃって……今度返すから」
 電話を切った後、僕は玄関に置かれた折り畳み傘を呆然と見つめた。
 傘を貸した?誰が?
 僕が、単に真理と会った記憶を失っているだけならば、この傘がここにあるはずはない。
「世界には、自分とそっくりの人間が3人はいる」。子供のころ聞いた話が頭をよぎった。
「もうひとりの僕」が、僕の記憶から抜け落ちた時間に存在しているのだ。
 一体誰なのだ。いや、親しい友人にも、恋人にすら見破られずに僕になりすますことなどできるはずがなかった。
「その人間と出会った者は死ぬ」。そんな話も思い出されて、一瞬背筋が寒くなった。
 馬鹿馬鹿しい。しかし、今の僕はそれを笑い飛ばせる状況になかった。
 僕は、昼間の時間を失ってしまったのである。


 それでいて、僕が環状線に乗ってやらないと、「もうひとりの僕」は現れないらしかった。朝定刻に起きて、いつものように電車に乗り込み、帰宅する。それだけが、強制されているようなものだった。
 ただ電車に乗り続けるだけの毎日。いつまでこんなことが続くのだろうか。一生?それを思うと、僕は身震いした。
 どうすることもできずに、環状線に乗り続けて3ヶ月ほどが過ぎた。その間、奇妙なことにも気づいた。僕は内回り列車で大学に向かう。しかし、夕方降りるホームは外回りのホームなのである。
 僕には移動している感覚がなかったが、これもふとした瞬間に入れ替わってしまうらしい。色々考えてみたが、理由はまったくわからなかった。
 どうせ乗り過ごして遅刻する心配はないのだと思い、少し居眠りをしていてふと顔を上げると、がたんと電車が止まり、見慣れぬ駅の風景が目に入った。
 今乗っているのは外回りである。感覚的にそれがわかった。
 ここはどのあたりなのだろうか。どうやらひとつふたつ乗り過ごしてしまったらしい。
 駅名が書かれた看板をよく見ると、あの夜乗り越した駅らしかった。
 とにかく折り返さねばならない。
 ドアはいまにも閉まろうとしている。僕は寝ぼけ眼であわててドアから駆け降りようとして―――――――。
 どんっ!
 肩が勢いよく誰かにぶつかって、僕はその場にしりもちをついた。
 目の前で、ぶつかった男と僕との間でドアが閉まった。
 男が振り返る。
「あ―――――――――――――」
 そいつの顔は、まちがいなく僕の顔であった。
 すると、あの日僕がぶつかったのは――――――――
 走り出した電車の窓に貼り付いて、僕は「僕」を凝視した。「僕」はあっけにとられた様子でこちらを見ると、やがて内回りのホームへと歩き出す。
 小さくなってゆく駅をあんぐりと口をあけて見ながら考える。
 ………今日は、いつなんだ?もしも、あの駅で降りなかったら…………。
 それから、僕は環状線から降りられない。
 電車は、見知らぬ街を走り続ける。
 いつまでも、いつまでも―――――――――――。


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