トラップ


 ついに俺は罠にかかってしまった。
 やつらの卑劣かつ狡猾な手段に、まんまとしてやられたのだ。
 得体の知れない粘着質のものが、俺の手足の自由を奪っている。はじめのうちこそ逃れようと苦心したが、両手両足が完全に地に密着し、身動きがとれなくなるだけだとわかり諦めた。
 抵抗をやめた俺は、暗い空を見上げて想いをめぐらせた。
 『社会』へ出て、やつらとの水面下での熾烈な抗争に打ち勝つべく厳しい訓練を施され、やっと一人前と認められるまでにどれほどの月日を要したことか。
 やつらは頭が良く、高度な技術力を有し、しかも非常に巧妙な手段でもって俺たち一族を撲滅しようと企んでいる。
 いや、表面的にはやつらは俺たちの存在を無視し、あたかも存在しないものとして認識することで、俺たちを自分たちの世界から遮断しようとしている。俺はこのような無言の差別化には比較的であり、お互いに一線を引いた社会づくりをすることに異存はない。
 しかし、このような卑怯な罠でやつらが俺たちの同胞を捕獲しはじめたのには、俺個人としても怒りをおぼえざるをえない。
 たしかに、現実には俺たちはやつらの社会に寄生していると言われても仕方がない。やつらの社会から出るおこぼれにあずかり、時には残飯をあさって生活しているのだから。
 しかし、この街で最大限の権力を握っているやつらが、乞食並みの生活をいとなんでいる俺たちを無視し、さげすみ、他の一族と比べてもあきらかに低い評価をしてきたことは否定できないではないか。
 俺にも子供がいる。今も俺が食料を採ってくるのを、住処で女房とともに心待ちにしているはずだ。
 昨夜、日が沈んでやつらがみな寝静まったのを見計らって住処を出た。日中俺たちの姿を目にすると、やつらの多くは悲鳴を上げたり、あるいは手近にあるものを凶器に攻撃を加えてくるものすらいるからだ。
 俺たちは奴等に危害を加えるつもりはない。しかし、やつらは俺たちの見てくれにすら嫌悪をおぼえるらしく、女子供など泣き出し、走り去るものもいるくらいである。
 そんなわけで、人目につかぬ深夜、俺は糧を求めて表に出た。俺たちの漆黒の肌も、身体を闇にまぎれさせてくれる。
 めぼしい食餌場はほぼ決まっており、そこに行けば旧友たちと出くわすことも多い。
 普段は言葉を交わすことも少なく、自らの必要とするものを探し当てると、足早に住処にもどるのが常だが、ときに重要な情報を耳にすることもある。
 恐ろしいトラップのことは、ジャックから教えられたのだ。やつらのつくり出した恐るべき罠。
 今俺を捕らえている粘着質の罠だけではない。一見無害な食料に見えて、一口食べたが最後もがき苦しんで死を迎えるものもあるという。しかも、それが効いてくるのは罠の食料を住処に持ち帰り、家族にも食べさせた後になるように仕掛けられているというのだ。
 それらの罠が、この一角にも設置されたらしい、と彼は言った。しかし、食い物を探しに出ないことには子供達も飢えて死んでしまうことを意味する。
 俺たちはいっそう慎重にことをはこんだ。しかし、やつらの卑劣さはそれを上回った。
 俺たちは鼻がいい。食料を効率的にさがすためだ。それが裏目に出たのである。
 昨夜、いつもと違う場所で食べ物の匂いを感じた俺は、もしかすると新たな食餌場を開拓できるかもしれないと色めき立った。罠のことは頭から飛んでいた。
 匂いと気配をたどって、ついにそれらしいところに近づいたぞ、と足を速めると、より狭い隙間のようなところに行き当たった。この地形は穴場で、やつらの落とした質のいい残飯が散乱していることがある。
 他のやつらに見つかる前にと、急いで先へと進んだ。そして、気がつくと手足の自由がきかなくなっていたのだ。われながら間抜けであった、と思ったときには後の祭りである。
 ここのところ収穫が少なく、出産をひかえた女房に食料を優先して渡していたせいもあり、俺の体力はすりきれていた。その上さきほどもがいたことで、いっそう衰弱している気がする。
 俺は自分の死を覚悟した。
 どうせ俺たち一族で天寿を全うできる幸運な輩はほとんどいない。こういった形で一生を終えることに文句はなかった。ただ、息子たちに生きる術を伝えられなかったことだけが心残りだ。
 身体を支えている力が抜けていくのがわかる。
 粘着質に身体を預けるのは多少気分が悪かったが、俺は床にはりつく形で倒れ伏した。
 やつらとの静かな闘いは、いつまで続くのだろう、次第に薄れゆく意識の底で、俺はぼんやりと考えていた。
 やつらが滅びるときには、俺たち一族が台頭する時代がやってくるだろう、という話を思い出す。
 俺たちの存在をやつらが受け入れ、他の種族との差別を解消する日はおそらくやって来ないだろう。しかし、やつらのいいように『飼育』され、見せ物のように売買されるものもいる連中に比べれば、いくらか幸運なのかもしれなかった。
 幼い息子達は、孤児として自らで食物を得に出なければならないだろう。幼くして『罠』で命を落とす子供達は数知れないと言われる。
 俺の子供達は、みんな元気でおおきくなってくれるだろうか。
 妻は無事に出産することができるのだろうか………?
 もう視界が暗くなってきている。祈ることができるうちに、俺は家族がたくましく生き延びてくれることを強く願い、ふいに罠のことを警告してくれたジャックに、申し訳ない気持ちを感じた。
 ひとりでも多くの同胞が、この汚い罠から救われるといいのだが。やつらは今以上に卑怯な手を使ってくるだろうが、切り抜け生き延び続けることが、やつらへの報復であるのだから。
 ねばつく床が、俺の意識をからめとろうとしているかのようだった。
 またひとり、罠とは知らずにこちらへ近づいてくるのが聞こえた。しかし、俺には彼に危険を知らせる力は残されていなかった。辛うじて触角だけでも束縛を逃れ、こちらへくるなと知らせようと試みたが、果たして俺の遺志は伝わったのだろうか……?
 小さな部屋の中で、粘着質の物体に縛られながら、俺の意識は闇へ沈んだ…………。


 朝起きると、ゴキブリホイホイの中でゴキブリが2匹死んでいた。


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