優先座席


 大学の講義が終わり、僕は家路につくべく地下鉄に乗り込んだ。
 今日は朝からハードな一日だった。疲れた身体をひきずるように、人の流れに沿って電車に乗る。
 吊革をつたって、車両の端の座席の前にたどりつく。目の高さに、ステッカーが貼られていた。シルバーのシールに、つえをついた女性のシルエット。
 どうやら今日は、伝統的な高齢者優先座席であるらしい。目を落とすと、80は過ぎていると思われる小さな老婆が、背中を丸めて鎮座していた。その隣には、少なくなった頭髪がほとんど白く変わっている男性がしかめつらをしている。今日も座れそうにはないが、仕方がない。僕は小さくため息をついてかばんを肩にかけなおした。
 ふと周りの空気が冷たいことに気づき、さらに横を見て驚いた。この近くの高校の制服を着た少年が座っているのだ。こころなしか少しためらいがちに、視線だけであたりをうかがっている。そんな少年に、優先座席に腰掛けた老人たちや、吊革につかまっている人々の冷たい視線が容赦なく注がれている。
 不穏な空気を包んだまま、電車は動き始めた。高校生は、いごこちが悪そうに視線を落としている。
 駅に着き、ドアが開いた。と、乗り込んできたひとりの男性が、少年を指さし声を上げた。
「こいつは優先座席に座っているぞ!」
 男性は、びくりとした少年の腕をわしづかみにすると、座席から引きずり下ろした。助けようとするものはいない。当然だ。僕も気に留めることなくその光景を眺めていた。
「待って……待って下さい、僕は……見て下さい、怪我をしてるんです、だから」
「だからも何もあるか」
 騒ぎを聞きつけて車掌が現れ、ギプスで固めた右足を松葉杖で指す少年を怒鳴りつけた。床に倒れた高校生を、男性と車掌はホームに放り出した。
「今時の子といったら、なにをするかわかったものじゃないわ」
 向かいの席の初老の婦人が、呆れ顔で言う。あわせてうなずく人々。
「まったく非常識な輩が多くて困りますな」
「まったくです。公共の場を利用する以上、ルールは守ってもらわないと。ほら、向こうへ行け」
 うずくまっている少年を蹴飛ばすと、車掌は男性に一礼し、急いで車掌室へと駆け戻った。折れた右足をコンクリートに叩きつけられてうめいている少年に手を差しのべるものはやはりいない。
 ルールを守らなかったのだから、因果応報というものだ。やがて動き出した電車の窓から、少年は遠くなってすぐに見えなくなった。


 翌日、僕はいつものように帰途についた。
 地下鉄に乗り込み、昨日と同じ車両の同じ場所に移動する。立っている人もたくさんいるわりに、空席が目立った。席に座っているのは、筋肉のよく発達した大柄な若い男だ。
 目の高さに貼られている青いステッカーには、クロールで泳いでいる人のシルエットと、その下に「1000」の数字。「1000メートル以上泳げる人優先座席」だ。
 できれば明日は「犬を2頭以上飼っている人優先座席」か、「一週間で3冊以上本を読む人優先座席」であってくれるとありがたいのだが。僕はため息をついてかばんを肩にかけなおした。



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